今回のマニプール滞在、目的の一つは日本人戦没者の慰霊碑でお参りする事でした。
インドは、僕の人生約半分を過ごした国。この国には昔多くの日本人兵士が戦場で亡くなり、歴史的にインドと日本がものすごく関係している。このインパール作戦は第二次世界大戦で最も日本にとって過酷な戦場舞台になりながらも、その悲惨さはあまり知られていないと思います。インド在住の日本人なら、なおさら覚えておきたい歴史です。インドに長年の縁がある中で、一度は慰霊碑へ行くべきだと思いました。
簡単に、インパール作戦に付いて説明します。
<いつ起こったの?>
1944年(昭和19年)の3月初頭から7月初頭までの4ヶ月。
<どうして起こったの?>
日本の当時の真の敵は中国でした。日本軍は東からほぼ中国一帯を占領し、蒋介石率いる中国軍は西に追いやられましたが、唯一、軍事物資の補給ルートがここインド極東部からビルマを超えて中国へ続く道でした。このルートでイギリスを中心とした連合軍が中国軍に武器を供給していました。このルートを遮断するために、日本は補給の中心都市であるインパールを攻略する計画をします。ビルマまでは日本の管理下に置かれていてそれまで地域的に日本軍が優位だったので、すぐ目と鼻の先に英領インドはすぐに攻略できるだろうと思っていたのでしょう。
<結果はどうなったの?>
この作戦は失敗に終わります。理由は様々。
○あまりにも無防備。厳しい地形や環境を配慮していなかった。ビルマのインド寄り地域にはチンドウィン川と言う大河が流れ、そう簡単には渡れない。その先には険しい標高2,000メートル以上にもなるアラカン山脈があり、ここもそう簡単に超えるような山脈では無い。インドに辿り着くまで、労力を失う。
○補給をあまりに軽視する。武器の弾薬や食料もろくに持たず、「ジンギスカン作戦」と言って途中の集落で食糧を確保し、それをすべて牛や水牛、ヤギに背負わせるという事。そして、それらの動物も最終的には食用にするという事。ところが、これらのいわゆる家畜はは馬と違って荷物を背負うのを嫌がってしまう。チンドウィン川では家畜の大半が溺死してしまい、あとの半分は荷物を持ったまま山を登れず、放置されてしまう。それにより、兵士自ら重い荷物を持ちながら登山し、肉用の家畜も無くなれば、装備も軽くするために多少物資も捨てざるを得ない。
○山を越えてインド側に入った時にはすでに弾薬の量も限られ、食料はほとんど切れていた。対するイギリスは、もちろん武器も食料も何も困る状況では無い。
それでも、一度山を越えた日本軍は勇敢に戦いました。限られた弾薬で日本が考えたのはインパールに繋がる陸路のルートをすべて遮断する事。これによって、イギリス軍の主要基地があったインパールを陸の孤島化させ、援助物資をすべて遮断する事に成功しました。インパールに通じるすべての道路を封鎖する事はできたのです。
ところが。。。
インパールには滑走路が沢山あり、陸の孤島とはなりましたがイギリス軍は物資をすべて空輸したのです。これは想定外でした。空輸された物資により、日本軍による道路封鎖はあまり影響が無かったのです。
○そして、雨季が訪れました。マラリアや熱帯性の病気が流行します。医療品が不足している中、多くの日本兵は倒れます。栄養失調が影響して免疫力も低下します。インパール作戦の戦争経験者によると、何が一番辛かったかと言うと、もし兵士で病気にかかった時、同胞に迷惑を掛けてしまう。だから、自ら命を絶つものが多かったという事。ものすごく兵士に規律があったという事を感じさせられます。
○日本は最後の最後まで抵抗し、日本が結果的に負けたものの戦い自体は精神面では対等の戦争だったと思われる事。イギリス軍約15万人の兵力に比べ、日本軍(及び日本側に付いたインド国民軍6,000人)はその3分の2弱の92,000人。でも、日本軍だけではなく、イギリス軍にとっても膨大な犠牲者が出ました。
日本軍の死者数:約56,000人
イギリス軍の死者数:約64,000人
※病死も含める
弾薬や食糧がほとんど無い状態の日本軍が、これだけの犠牲者を物資が揃ったイギリス側にも出す結果となったのは、如何に日本軍の兵士の力と根気が凄かったかと言う事を物語っていると思います。
実は、インパールに飛行機で届けられた物資のほとんどが現在ナガランドにあるディマプールからでした。日本軍はナガランドのコヒマ周辺も一時期占領し、コヒマとディマプールはわずか70キロ程。もし、日本軍がディマプールまで前進していれば、インパールに物資が届かない状態になり、もしかしたら日本軍がアッサム平野まで来ることができたかもしれない。そうなると、歴史がかなり変わっていたかと思います。現地の戦争研究家曰く、戦争当初であれば日本にそれだけの力があったと言っていました。日本軍がイギリス軍の空輸ルートを把握していれば、違う結果が出ていたかもしれません。
こうすれば歴史は変わった、という説は語り始めるときりがないので、この辺でやめておきます。
悲惨なのは戦争自体だけではありません。休戦が宣言されて司令官が撤退を表明した7月、生き残った兵士はまたビルマまで山を越え、川を越えて歩いて戻らなければなりません。ここで、衰弱しきった兵士は次々にマラリアや赤痢に掛かったりして、結果的に無事ビルマまで辿り着いて日本まで帰還できた兵士はわずか1万2,000人。兵士が開戦当時100人いたとしたら、生き残ったのはわずか14人の計算になります。
インパールから車で30分程南下したロトパチェンにあるレッド・ヒルと言う場所に、日本政府が1994年に建てたインド平和記念碑と、それ以前に70年代に地元住民によって建立された日本人戦没者慰霊碑があります。レッド・ヒルはインパール作戦で最も激しかった舞台の場所です。1週間程、銃撃交戦が続いた場所だそうです。
インド平和記念碑の中は至ってシンプルです。墓がある訳でもなく、大きな平らな岩がポツンとあるぐらい。ここにローカルの市場で購入したスイレンとオレンジをお供えし、そして現地協力会社の社員が気を使ってくれてろうそくをお線香を用意してくれました。
ここで平和を祈りながら、英霊の方々達にお国のために命を犠牲された事に感謝の意を込めました。今の日本が平和でいられるのも、この様な悲惨な戦争を体験されたからこそだという事を個人的に強く痛感しております。その悲惨な戦争で犠牲になった大勢の英霊たちがいてくれるからこそ、日本は平和への大切さを深く知る事ができ、現在では食べ物に困る事が無い世界有数の豊かな国になる事ができました。平和をこれからも維持するには、インパール作戦の様に悲惨な戦争舞台なほど忘れずに、代々子孫に伝えていくべきだと思います。
また、それより大切なのは、大和魂と言うか、日本人の執念深さ。どんな状況に落ちても、最後の最後まで戦い続ける精神は日本人として誇れることだと思います。不足している食糧や医療の他にも毎日替えの服も無く、雨季の雨で濡れたままの服を着続ける。寝る時間もほとんど無い。水浴びなんてできない。想像を絶する環境下の中で戦われた日本兵の皆様には脱帽です。
ここには、桜の木が何本か植えてあります。それぞれ、根本には誰が植えたか名前が記載されています。その中には、元在インド日本大使館の八木大使の名前もありました。
一本だけ、桜の木が開花していました!まだ1月中旬です。日本国外で初めて桜の花を見ました。インドで桜ってなんだか新鮮です。綺麗ですね。
平和記念碑の隣にある日本人戦没者慰霊碑は、もっと本格的です。日本軍の使用していた機関銃もありました。先ほどの平和記念碑にすべてお供え物をしたので、ここではろうそくだけ立てました。
前在インド日本大使のメッセージの一部です。日本大使館のホームページより引用しております。
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インパール郊外のロクパチンにある二つの記念碑を訪れました。ロクパチンはインパール作戦の中でも最も激しい戦闘が行われた場所で、記念碑は「レッド・ヒル」と呼ばれた小高い丘の麓に建てられています。一つは1994年に日本の旧厚生省が建立した「インド平和記念碑」、もう一つは1977年に地域住民により建立されたもので、後者には、戦後、長くマニプール州で日本語教育などに尽力された故牧野財士氏による慰霊の短歌が刻まれています。記念碑は現在も州政府と地域住民によって良好に維持・管理されており、滞在中のいろいろな機会に、私から現地関係者の方々に対して謝意を表明しました。記念碑訪問時には、1944年当時ロクパチンに住んでいたという方も来られており、通訳を介してではありましたが、当時の模様につき話を聞くことができました。インパール付近は、今でこそのどかな農村・田園風景が広がっていますが、この地が70年前に激戦の場となり、多数の方々が命を落とされたことを想い起こし、大変に厳粛な気持ちを禁じえませんでした。また、戦争の歴史にもかかわらず、現地の対日感情は基本的に非常に良好であると思われます。これからも、日印関係全体の発展を図る中で、マニプール州を含む北東部にも配慮していく必要があると感じました。
八木毅
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もう一つ、インパールとは違う場所にある元激戦地、ヌンシグム。今は穏やかな景色で田んぼが広がるのどかな光景で、とても激しい戦闘が繰り広げられたとは思わせません。
ここでビジネスの話をして恐縮ですが、インパールでは現地人でインパール作戦研究家をガイドとして同行するツアーをアレンジ可能です。もし、詳しい大戦関係の場所を巡るツアーがご希望でしたら、プランをH2トラベルズにて作成致します。この研究家は、日本軍関係の戦備品などを集めた戦争博物館のオーナーでもあり、日本軍資料に関してはとても知識が豊富です。詳しくは、お問合せ下さい。
戦争の悲劇を体験して初めて平和があります。戦争の知らない我々の世代が平和のありがたみを感じるには、如何にこれからも戦争の酷さを子孫に伝えていく必要はあります。
僕の亡くなった祖父も、沖縄で戦いました。あまり話したがりませんでしたが、戦闘中はその辺の草やネズミの肉を食べながら飢えを忍んだと聞いた事があります。戦争を生き延びた祖父は、とても根性があり、家族思いでした。辛い体験をしたからこそ、芯が座っていたのだと思います。
日本は確かに戦争には負けましたが、この根性強さは世界に誇れると思います。
追伸:気になる現地の日本への感情ですが、かなり好意的に感じます。戦時中も日本軍は村を襲撃したりはしていなく、当時マニプール人にとってイギリスに対して敵対心があった事から、日本軍が攻めてきても決して現地ではマイナス感情に感じられるのは非常に少ないようです。