南アで最も複雑な課題の一つが人種間関係でしょう。いや、人種間関係と言うよりも人種間で異なる経済格差です。この国を訪問すると違いはかなり明らかです。アパルトヘイトが終わって26年も経過するのに、外見だけで判断するとまだ続いている様に感じます。
そのアパルトヘイト政策とは一体何だったのでしょうか。これを語るにはアパルトヘイトまでに起こった歴史的経路から説明する必要があります。アパルトヘイト政策が正式に誕生したのは1948年ですが、それよりも300年前から人種差別の歴史が根強いています。
※個人的な主観も入りますので容赦下さいませ。
<アパルトヘイト政策が誕生するまで>
南アの人種差別の歴史はオランダ系白人がケープ半島に入植した17世紀から続きます。当時は東南アジアからマレー系住民が奴隷として連れてこられ、昔から暮らしていた先住民であるコイコイ族の自由移動も制限していました。
後ほど、18世紀後半になるとイギリスがケープ支配に興味を持ち、植民地化します。19世紀に入るとイギリスは産業革命に入り、奴隷制度を廃止して白人以外の人種にも平等権を与えました。奴隷の労力に頼っていた農家のオランダ系住民(ボーア又はアフリカーナー)は経済的に打撃を受け、更にイギリス系移民が多く入植する様になってボーアの生活に脅かされる様になりました。この頃からイギリスの影響を避けるために、ボーアによる民族大移動が始まります。編成して内陸の方へ幌牛車で移動します。これをThe Great Trekと呼びます。
途中、ズールー族と戦い、銃を持っていたボーアの力は高く見事内陸はボーアの領土になります。3つのボーアの共和国ができ、現在首都プレトリアが置いてあるトランスバール、ブルームフォンテインがあるオレンジ自由国、そしてインド洋に面したダーバンがあるナタール共和国です。
内陸に移動したボーアの殆どは農業に属し、イギリスの脅威に影響される事無くしばらく暮らしていましたがこの辺りは非常に資源が豊かで金やダイヤモンドが多く採掘できる様になりました。これを知ったイギリスは目を付け、内陸のボーアの領土も奪おうとします。2回のイギリス対ボーアの戦争が繰り広げられ、この戦争で歴史上初めての強制収容所が出来たと言われ、ここで多くのボーアの女性と子供が飢餓によって数万人規模で亡くなりました。ボーアにとって悲劇の歴史となり彼らの大きな心の傷でもあります。結果的に1902年にイギリス側の勝利となり、今ある南ア一帯はすべてイギリス領となりました。
その後、ボーアとイギリスは平和条約を結び、1910年に南アフリカ連邦として南アはイギリスより独立を果たしました。ただし、イギリスの影響力は強く、旧英連邦の連合国である位置づけは変わらず、第一次大戦や第二次大戦にもイギリスの肩を持つことになります。先にボーアの悲劇があった事から、ボーア人の皆がこれに賛同した訳ではありません。
既に独立当時から白人以外への人種差別はありました。選挙権は白人のみで黒人は「保護区」以外では土地を所有する事ができず、そしてその後はインド系住民の土地の所有まで禁止にしました。マハトマ・ガンジーが白人専用の列車車両から真夜中に引きずり降ろされて人生観が変わりインド独立運動への第一歩へ進んだのもこの時でした。アパルトヘイトは既に始まっており、これは全人種平等と掲げていたはずのイギリスが差別法を1910年以前から作り上げていたのです。
第二次大戦後、南アは戦後復興の経済発展により、多くの黒人が仕事に就く事になりました。法的差別がありながらも黒人も白人も隣り合わせで働いていましたが、実に産業化にあまり慣れていないボーアは黒人にどんどん都会の仕事を奪われていしまうのでは無いかと言う危機に直面していました。そもそも基本農業で生きているボーアの人達にとって都市化はある意味脅威でもあったのです。
1948年、南アは総選挙を迎えます。とは言っても有権者は白人のみ。白人人口の大部分はボーアで占めていたため、ここでボーア中心政党の愛国党が勝利しました。まず最初の改革はボーアの人達の就職確保。歴史的経歴からイギリスに盾突けない部分もあり、これをイギリス系を含めた「白人」と言う形でカテゴリー化されます。これを起点に、アパルトヘイトの正式誕生です。
<アパルトヘイトの誕生と政策内容>
今まであった人種差別法を強硬化したのがアパルトヘイトです。いくつかリストアップすると:
〇人種別で居住区を完全に分ける。白人が一番良い肥沃な土地に住み、次に混血であるカラードもしくはインド系(その他アジア系も)、そして最も不毛である土地を黒人に分け与える。とは言っても南アの国土内で一部地域を除いて白人以外が土地を持つ事はできず、強制移住を余技無くされてしまう。人種別で一緒の居住区に住む事はできない。
〇南ア全人口の2割弱の白人が国土の8割強を管理する。南ア全人口の7割を占める黒人は国土の1割強と言う狭い土地に強制的にホームランドと呼ばれる自治区(保護区と言う名目で)を与えられる。インフラ設備はほぼ無し。南ア政府は勝手に独立をさせて共和国にさせたがどの国も認めていない。
〇公共施設の完全分離。白人専用のビーチ、バス、病院、学校、公衆トイレ等ができる。
〇黒人をメイドや肉体労働対象として育てるために通常教育よりも家庭科教育を優先させる。
〇黒人が白人地域に入るときは身分証明書を携帯しなければならない。これに反発して暴動が起きる。
〇アフリカーンス語教育の徹底化。これも黒人からの反発が大きかった。
〇後にカラードとインド系は彼らのコミュニティー内で参政権は与えられるが、白人政権には何も逆らう事はできない。黒人は一切の政治活動を禁止。マンデラ率いるANCに属する党員の多くは拷問で亡くなっている。
等々。
ここまで非人道的な政策になったのはボーア戦争で強制収容所での体験の傷が大きいのでは無いかと想定します。イスラエルもパレスチナへ対して時々非人道的になるのもホロコーストを体験したからでは無いか、と考えさせられる共通部分があります。
<社会的問題>
大抵各白人家庭には黒人のメイドがいました。メイドには女性が多く、彼女らは唯一白人住居地でもその家主の敷地内に住むことが許されていました。でも、メイドの家族は住むことは禁止。そのため、黒人家族はバラバラになってしまうという家庭問題に発達。しかし黒人の職は基本的に白人地域にしか無いため、結果的に家族で分かれてしまう生活を余儀なくされてしまう。これが根本的なアパルトヘイトの悪の根源でしょう。アパルトヘイト終了後の極度の治安悪化もこの歴史的背景が大きいと思います。
また、多くの白人も黒人のベビーシッターに育てられ、時には愛情を注がれる。これらの白人の子供達が成長すると親の様に可愛がってくれたベビーシッターに対しての国家的な待遇に矛盾を覚えてしまう。アパルトヘイトが続かなかった理由はこの様な一般白人の精神的な部分も大きいと思います。
<複雑な東アジア人>
アジア人は「カラード」として扱われましたが、世界が南ア政府に反発していた中、日本は南アと貿易を続け重要なパートナーだっため、人種差別は不利と判定して日本人には60年代には「名誉白人」が与えられる。あくまで「名誉」のため、白人専用の施設は使用できるけど白人との結婚や参政権は与えられなかった。この「名誉白人」は後に南ア同様に国際社会から孤立した中国国民党と強い縁があった台湾人と、韓国人にも与えられる事になりました。ただ、問題は中国人はカラード扱いだったため、同じ顔立ちに区別ができず、後にアパルトヘイト末期には中国人も「名誉白人」を与えられる事に。80年代後半になると日本は南アにとって最大の貿易相手国になる。
<アパルトヘイトの終焉>
国際的な孤立から経済が停滞していた事、国内での相次ぐアパルトヘイト反対運動(白人も含む)、当初はポルトガル領だった隣国アンゴラとモザンビークが独立して南ア政府に盾突きをし、マンデラ率いるANCが世界中から支援を受けていた事から、80年代後半は非常事態宣言が続き、遂に南ア政府もANCと交渉する事が始まりました。1991年に正式にアパルトヘイトは終わり、1994年に黒人を含めた総選挙でANCが見事に圧倒的に優勝。マンデラが大統領になり、何百年も続いた白人政権に歴史の幕が閉ざされました。
南アはレインボーネーション(虹の国)となり、人種、性別問わず平等になりました。同性婚もアフリカの国としては唯一合法化されました。
<一口に「白人」とは言えない>
歴史を振り返ると、アパルトヘイトはただ「白人支配」とまとめられるのでは無く、これには複雑なイギリスとボーアの歴史的背景があります。ある意味ボーアは白人の中でもイギリスに抑圧された存在でもあり、それがアパルトヘイトの様な非人道的な行為に繋がってしまったのだと想定します。
結果的にイギリスが法的に開始した人種差別制度なのに、黒人の怒りはボーアに向けられる。その反動で多くのボーアの人達は自虐的思考に陥ってしまい、伝統文化が危機に直面してしまう。パレスチナ問題も、元はイギリスがユダヤ人をパレスチナの地に入植する事を許したのに、アラブ人はイギリスに対して怒りを向けられません。イギリスは外交上手です(って、かなりイギリス批判になってしまいましたがw)。
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現在すべての国民が参政権を獲得でき、大きな歴史の一歩を踏み出しましたが、長年続いたアパルトヘイトが残した問題は今でも健在します。次はアパルトヘイト終了後の南アについて語りたいと思います。